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豊臣秀吉も恐れた軍師官兵衛の半生を描いた「黒田如水」

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黒田如水

著者:吉川英治

朗読:前田弘喜
朗読時間550分
CD8枚組
¥5500円

吉川英治

日本の小説家です。
小説家になるまでに様々な仕事を経験したそうです。
1935年に連載を開始した「宮本武蔵」は大衆小説の代表的な作品となり、
戦後は「新・平家物語」、「私本太平記」などを執筆し、国民文学作家と言われています。

戦後は敗戦の衝撃から筆を執ることが出来なくなっていたそうで、
親友の菊池寛の助けがあり、かけるようになったそうです。
また、人気連載の「宮本武蔵」の版権をめぐって講談社と六輿出版がもめていたりと、
作品の人気ぶりがうかがえます。

沢山の傑作作品を残した吉川英治でしたが、がんが悪化し、70歳でこの世を去りました。

黒田官兵衛

軍師官兵衛で有名な黒田官兵衛ですが、
実は黒田「官兵衛」とは豊臣秀吉がつくった役職の名前で、本名は黒田考高といいます。
その後出家して黒田如水と名乗り生涯を閉じました。

また、キリシタンでもあったため、シオメンという洗礼名もありました。
呼び方が多く存在するためここでは黒田官兵衛に統一したいと思います。

黒田家の家紋

戦国武将にとって家紋は特別です。
家紋にはそれぞれ意味があり、存在意義のあるものだそうです。

黒田官兵衛が使用した家紋は2種類あります。

藤巴

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一つ目のこちらの家紋は小寺家から貰った家紋です。
小寺家は橘藤巴という家紋を使っていたのですが、
黒田家は家臣としての配慮をふまえ簡略デザインの藤巴にしたそうです。

黒餅

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この家紋は竹中半兵衛が使っていた家紋になります。
小寺家が織田信長を裏切り前の家紋が使えなくなってしまったので、恩人でもある竹中半兵衛の使っていた
家紋を使うことにしました。
官兵衛はこの家紋をとても大切に使ったそうです。

この家紋の意味はデザインと共にシンプルで、
こくもち→石もち、穀もちと縁起の良い言葉として当時の大名がとても気に入って使用していたそうです。

黒田家官兵衛の誕生

黒田官兵衛は天文15年の11月29日に播磨国で生まれました。
播磨国とは現在の兵庫県姫路市です。
黒田家は元は室町幕府に従えていた近江の名門でした。
しかし仕えていた10代将軍・足利義植の怒りに触れて備前国に流れ着きました。

生活に困った官兵衛の父(黒田重隆)は「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬の製造販売を始めます。
この目薬が大ヒットし、財を成すことに成功した黒田家でした。
目薬の利益で低金利の金融業を営み、さらにその利益で田畑を買うなど、
経済力を蓄えていくのでした。

黒田官兵衛の幼少期〜

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黒田官兵衛が幼少期の頃になると、財を築いた才能を買われ、父は小寺家へ仕官することになります。
※仕官とは官職について役人になることです。

小寺家は播磨で権力を持つ赤松家の分家でした。
そして官兵衛は7歳頃から寺で読み書きを習い、勤勉、そして運動神経もよく、
文武両断であった記錄が残っています。
官兵衛の母は教養のある女性であり、母の影響で官兵衛も若など書くことが好きで、
将来はその道を極めたいとも思っていたそうです。

しかし、官兵衛が13歳の頃母が亡くなってしまいます。
その悲しみから官兵衛はより一層歌道にのめり込みますが、
そんな彼を見て金魚のお坊さんが「時代は乱世であり、今は兵書を読んだり武芸に励むべきです」との言葉で、
官兵衛は父と同じく小寺家に仕官する道を選びました。
官兵衛16歳で初陣を飾り、父と共に出陣しました。

黒田家総帥

官兵衛が20歳の時、父から家督や家老職を継ぎ、小寺家の実務を担当し始めました。
城主・櫛橋伊定の娘である光方(てるのかたと読みます)とも結婚しました。

官兵衛は生涯側室を作らず光方だけを妻としたそうです。
官兵衛は23歳、光方16歳の時に男の子が誕生しました。

10倍の勢力に勝った男

官兵衛が従えていた小寺家は赤松家という名門一族の別家でした。
その赤松家の主家で後継者争いが勃発します。
赤松政村とその息子義祐が対立し、息子の義祐が父の政村から赤松家家督の座を奪ってしまいます。
別家の小寺家は義祐側につきます。
家督の座を奪われてしまった父の政村は龍野赤松家を頼りました。
当時の播磨で一番権力を持っていたそうです。
そしてさらに政村側には家督の赤松政秀は自分の娘を将軍足利義昭の侍女として送っており、
更に織田信長との繋がりもありました。
よって赤松政秀に加えて信長も政村側につき、勢力を拡大させました。

このお家騒動によって小寺家対信長軍の青山の戦いが始まります。
信長軍が3000人に対して韓米が指揮する小寺軍は300人と10倍以上の勢力の差がありました。
しかし黒田官兵衛の奇襲作戦が成功し見事信長軍を撤退させることに成功しました。

織田か毛利か

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織田信長は赤松家を通じて播磨の支配を始めていました。
その当時播磨国内で織田信長に従っていないのは小寺家だけでした。
さらに毛利氏という脅威もあり、小寺家は織田か毛利かのどちらかにつくことを決心します。
家臣を集めどちらにつくかを会議した結果、
官兵衛が織田信長を推したので織田につくことが決まりました。
しかし、織田信長の元へ会談に行きたがる者はおらず、なかなか決まりませんでした。
そこで官兵衛が行くと言い、会談に向かうことになりました。
その時に声を上げてくれた官兵衛に喜んだ政職が官兵衛に小寺姓を与えたそうです。

天正3年、官兵衛は織田信長に会いに行きます。
その時に二人の中を取り持ったのが豊臣秀吉だそうです。

織田信長に会いに行った官兵衛でしたが、すぐに気に入られ「へし切り長谷部」という名刀を預かったなど言い伝えられています。
※この話は後世の創作とも言われています。

この後の英賀合戦で毛利氏に勝利した官兵衛は織田信長から感謝状が贈られます。


人生最大の大ピンチ!

織田軍対毛利軍の戦いにおいて、織田軍から裏切り者がでてなかななに難しい戦況になっていました。

小寺家と織田信長を繋いでいた荒木村重が織田信長を裏切り、荒木村重は小寺家も道連れにしようとしていました。
そこで官兵衛は荒木村重を説得しに一人で有岡城に出向きます。
必死の説得もむなしく、官兵衛は幽閉されてしまいます。
それから1年ほど牢屋に閉じ込められてしまったのでした。
閉じ込められてしまったことを知らない織田信長は官兵衛も一緒に裏切ったのではと考え、
官兵衛の息子、長政の殺害を命じてしまいます。

竹中半兵衛という官兵衛の生涯の恩人でありライバルの武将が息子の殺害を阻止しました。
この二人は「両兵衛」とよばれ秀吉軍で頭脳派として活躍していました。

竹中半兵衛は信長に別の首を見せて長政を殺したと嘘の報告をし、
自分の領地にかくまいました。

※総大将の言うことは絶対であり、この嘘がばれてしまえば竹中半兵衛も殺されてしまいます。

天正7年ここでやっと官兵衛を助け出します。
驚くことに荒木村重は家族や家来を見捨てて一人で毛利の元へと逃げていました。
見捨てられた罪のない使用人、女、子供達は織田信長の軍によって斬殺されてしまいました。

助けられたこのとき、すでに竹中半兵衛はなくなっており恩人に会えることは二度とありませんでした。
※実はこの話も創作であると言われています。織田信長が処刑を命じた記錄はどこにもなく、
織田信長も黒田家も官兵衛ふざいながら冷静だったと史料が残されているそうです。
実際の所は分かりませんが良いお話ではあると思いました

小寺家からついに黒田家へ

村重の企みで小寺家はすでに寝返っており、官兵衛の説得に耳を貸すこともありませんでした。
織田信長に攻め入れられて小寺家は事実上の消滅になりました。

そして官兵衛は豊臣秀吉の直々の家臣となり小寺から黒田に名前を戻しました。

※この時に家紋も変更されました。

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兵糧攻め

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官兵衛の戦術の中でも有名な戦いの一つ兵糧攻め!

兵糧攻めとは城に敵軍を籠もらせて、米や食べ物などを消費させて飢えによって降伏させる作戦です。
この作戦は自滅させるのが目的のため自分たちの軍がダメージを受けることはない長所があります。
この作戦は官兵衛が幽閉されている間にも豊臣秀吉によって使われていたそうです。

では早速兵糧攻め開始です。
今回攻めるのは鳥取城です。
天正8年、毛利川の吉川経家が鳥取城で城を守っていました。
しかしこの経家がなかなかに手強い上に、鳥取城はとても攻めずらい城でもあったので、
ここは自分たちが戦うというよりは自滅させましょうと言うことで自滅を狙って兵糧攻めを決行することになりました。

官兵衛は高値で周辺の米を買い占め、食料が送られてくるのを防ぐため、川や海も完全に監視させていました。
さらには援軍の侵入ルートも遮断する徹底ぶりでした。

そしてとどめに鳥取城下の領民にも攻撃をします。
2000人近くいた領民を城で保護しましたが、食料はあっという間に尽きてしまいました。
この当時の日本にはまだ肉食の習慣はなかったのですが、生きるために家畜の牛や馬をたべたり、猫、ネズミ、さらには
死んだ人間を食べるまでに飢えは達しました。
最終的に生きた人間の間で殺し合う状況になってしまい、経家は泣く泣く降伏しました。
豊臣秀吉は降伏した経家に「経家どのは助けましょう。家臣の命で許します。」
とのことを言いましたが、経家は応じることなく家臣達と切腹して生涯の幕を閉じました。

水攻め

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実はもう一つ有名な戦いがあります。
水攻めです。

水攻めとは文字通り水で攻める作戦です。
洪水を起こして城ごと攻撃する戦い方です。

天正10年の6月に豊臣秀吉の軍は備中高松城を攻めます。
しかし沼に囲まれた城であったために大軍で攻めることが出来ませんでした。
そこで官兵衛はこの地の良いところを利用してやろうと水攻めを考えつきました。

全長4キロ、高さが8メートルととても巨大な堤防をつくって川の流れをせき止めました。
その堤防は2週間足らずで完成したそうです。(しかも破格の給料をだして)
この堤防の一部は現在でも残っているそうです。

梅雨の時期が作戦の手助けをし、見事に作戦は成功。
みるみるうちに城は水浸しになっていった。
この戦いでようやく毛利氏も負けを認めた戦いでありました。

喜びもつかの間

この戦いで喜んでいる暇はありませんでした。
天正10年6月2日に事件が起きてしまいます。
織田信長軍のナンバー2と言われた男明智光秀が織田信長を殺した
戦国時代最大のミステリーと言われている「本能寺の変」です。

現在でも色々な方が研究を進めていますが未だになぜ本能寺の変が起きたのかを解明した人はいません。

現代の力を持ってでも分からないあの事件ですので、当時のかたも相当混乱したと思います。

総大将と慕っていた織田信長の死に、悲観に暮れている豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉が生涯警戒した男

織田信長の死に悲しんでいた豊臣秀吉でしたが、
官兵衛が豊臣秀吉にかけた一言で豊臣秀吉は生涯官兵衛を警戒します。
その言葉が、
「光秀どのが裏切ったことによって、秀吉さまの天下の道が開けました。」
だそうです。
この発言以降死ぬまで警戒したそうです。
そりゃそうですよね。
悲しんでいる人に対して軽やかにいうのは少し怖いですよね。

後に豊臣秀吉の次に天下を取るのは官兵衛だとも言っています。

豊臣秀吉天下をとる

山崎合戦という戦いに勝利し、豊臣秀吉は遂に天下を統一します。
そして天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の時代が始まります。

賤が岳の戦いが勃発している間、官兵衛は本能寺の変でうやむやになってしまった毛利氏との戦後交渉に当たっていました。
講話はなかなか上手く進みませんでした。
しかし、京都に帰る機会を伺っていた足利義昭から助け船が出されました。

足利義昭とは織田信長に利用され、用済みになった途端に京都から追い出され、広島県に飛ばされてしまった室町幕府将軍です。
足利義昭の参入によって毛利家との講話に助け船を出してくれスムーズに話が進みました。
そして豊臣秀吉も方も、織田信長が死んだ今、足利義昭の帰京にも同意し、双方納得のいく講話になりました。

関係性の変化

この後官兵衛はこれまで通り活躍しましたが、豊臣秀吉との関係が変化していきます。

豊臣家家臣の石田三成と黒田父子はウマが合わず、
石田三成の虚言や陰湿な企みによって豊臣秀吉と官兵衛の中は少しずつ、確実に中が悪くなっていきました。
そこに朝鮮での戦いでの不手際なども重なり、豊臣秀吉の怒りを買ってしまった官兵衛でした。

官兵衛は息子の長政に家督に譲り、出家・隠居をしました。

そして出家の時につけた名前が今作の題名でもある「黒田如水」です。

黒田如水

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石田三成の虚言から始まった朝鮮のでの戦いの不手際に対して
怒りが抑えられなかった豊臣秀吉は官兵衛に蟄居(ちっきょと読みます)を命じ、
その末に切腹を命じました。


蟄居中に豊臣秀吉から大阪城に呼び出された官兵衛が、紙を剃り「本日から黒田如水と名乗ります」
と突然に出家しようとしたことにさらに豊臣秀吉は怒りが増しました。
しかし、官兵衛は「如水」という名前には二つの意味があると説得を始めます。

一つ目は「何を言われていても、心は水のように澄んでいます。」
つまり、いままで行ってきた行動は何一つ間違っていたと思えません。
という意味です。

そして二つ目は「水はいかようにも形を変えます。」
黒田官兵衛という水を活かすも殺すも豊臣秀吉次第ですと言うことをいいました。

さらには周りの助命の説得があり官兵衛は命を落とさずにすみました。
そして無事に隠居・出家をすることが出来ました。

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幼い頃夢見ていた道へ

波瀾万丈の人生を送った官兵衛の晩年は、幼い頃に憧れていた歌人の道へ進むことでした。

また、武将の間で流行っていた「茶」もやるようになりました。
そして59歳で黒田官兵衛は生涯を終えました。

葬儀はキリスト教式で行われました。
上記では紹介しませんでしたが、官兵衛はキリシタンで、
洗礼名ドン・シメオンというそうです。
そしてこのような遺書を残しています。

「世の中に切腹ほどつまらないものはない。
主人と一緒に死んだとところで、死後共に過ごせるわけもないのに。
むしろ立派な家臣を出来るだけ残して、大事な我が子にやりたい。
くれぐれも私の後を追うことのないように」

と。

官兵衛の死因については諸説あるそうで、調べていてもとてもおもろかったです。
ここでは省略させて頂きます。
個人的には梅毒説とそれを真っ向から否定するやりとりが面白かったです。

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