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ボストン美術館の東洋部顧問をしていた岡倉覚三が、
日本文化を欧米に紹介のために英文で描かれた美の教典

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茶の本 The Book of Tea

著者 岡倉 覚三

朗読 野々宮卯妙(和訳)

朗読 Hector Sierra(原文)

朗読時間190分(和訳)
CD3枚組
朗読時間136分(原文)
CD3枚組

各¥3300円

あらすじ

西洋人に日本の文化や美意識を知らしめるために出版
新渡戸稲造の「武士道」とほぼ同じ時期(7年後)に英語で出版され
世界中で今も読み継がれている、日本文化の啓蒙書です。
この作品は元々は日本人向けではなく、
ボストン美術館で東洋美術収集の仕事をしている際に欧米、
西洋人に日本の文化や美意識を知ってもらうため、明治39年にニューヨークで英文出版されました。
発売後すぐにスウェーデン、ドイツ、フランス、スペインなど13カ国で翻訳されています。

新渡戸稲造の「武士道」によって日本人の「戦闘的精神」が目立ってしまったことに
岡倉覚三は違和感を持ち、「平和的」文化である「茶」にこそ日本の神髄があることを主張しました。

そして、「茶の本」という題名ですが、茶道の具体的な歴史や作法ではなく、背景となる思想に注目しています。
茶道を通して、日本文化は西洋文化に比べ劣っているものでは無く、
西洋人が学ぶべき点も多いというという強い想いの伝わってくる作品です。

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日本の侘び寂びについて学べる作品です。
「茶道」の思想的背景と「禅」の深いつながりを指摘されますが、
そのルーツは実は「道教」が潜んでいます。
茶の本に出てくる「禅」と「道教」について簡単に解説していきます。


「道教」とは
中国三大宗教の1つであり中国古代の民間信仰、
神仙説に道家の思考などが加わった中国の宗教です。

中国三大宗教の概念の違い
「道教」、「儒教」、「仏教」とありますが、概念の違いについてまとめました。

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「道教」では、理想を追い求めることを良しとしませんが、「儒教」では理想を追い求めて、
お互いに学び合うことを大切にしています。
「仏教」は「道教」とも「儒教」とも異なり、「生きることを苦とする考え方」があります。

道教、日本への影響
「道教」は4世紀頃には日本に流入したとしています。
本来の形では広まりませんでしたが、
日本の信仰の1つである「神道」に影響を与えました。
例の1つとして、皆さんご存じであろう勾玉のマークのもとは「道教」の「太極図」です。

「禅」とは
禅というのは「坐禅」のことで「禅宗」というのは修行の中心を坐禅にしているということです。
禅という言葉は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」の漢訳です。
サンスクリット語とはインドに古くから存在する由緒正しい言語で、パーリ語はその俗語となります。
日本でいう標準語と地方の方言みたいな関係と大雑把に考えるとわかりやすいです。

このパーリ語の「ジャーナ」という言葉の音を聞いて、
昔の中国の人は漢字に訳す際に似た発音をする漢字をあてはめました。
それが「禅那(ぜんな)」という言葉です。ここから「那」が落ちて、禅という言葉が生まれました。

なのでこの漢字自体には実は意味がありません。
音が似ているという事だけです。
「ジャーナ」=「禅那」のように発音をそのまま写した訳を音訳と言います。
そしてその反対に、意味で訳すことを意訳と言います。

中国の意訳では「ジャーナ」を「静慮(じょうりょ)」「定(じょう)」「思惟(しゆい)」などと意訳しています。
この漢字はすべて精神の統一を表す言葉です。
これらの意味は瞑想と同じような意味を持っているんです。

そして面白いのが瞑想とは座禅のことであり、「禅」と「座禅」が繋がります。

禅という意味を一言では表現出来ません。
根本的な意味を少し知るだけで作品の理解度が大きく異なるので目を通して頂きたいです。

上記の道教と禅の基本を知ってもらったところで、
今作の「お茶」と「禅」についての紹介がすんなりと理解出来ると思います。

お茶の始まり
日本にお茶がもたらされたのは805年に最澄が中国留学から帰国した際に持ち帰って来たのが始まりです。
この頃は主に輸入しており、天皇や貴族達が飲んでいた高級品でした。
後の1191年に日本臨済宗の祖、栄西が中国に留学に行き、
帰りにお茶の種子と苗木を道帰りお茶の栽培が日本で開始されました。
当時お茶の存在は心臓を強くすし、眠気を覚ます薬として修行の手助けになると言われていました。

千利休の登場と茶会
戦国時代末期から安土桃山時代の豪商で茶人、さらには
茶の湯(茶道・わび茶)の完成者として知られていて、
茶聖と讃えられている千利休。

利休は千宗易ともいって大坂堺の商人でもあり裕福な家庭で育ちました。
そして若い時から茶の湯に親しんでいました。
後に堺の南宗寺という立派なお寺に通って禅を学び京都の大徳寺でも学びます。

この時代ももちろんお茶は贅沢品でした。
美を表現する茶室や茶道具、作法を一体とする茶の湯の世界を大成し、
織田信長が堺を直轄地にした時に信長の茶頭にえらばれました。
茶会を開くことはとてもとても名誉なことでした。
織田信長は茶会を許可制にし、臣下に茶器を与えて褒美にしました。
天下一の茶の宗匠と言われていたそうです。

そして時代は安土桃山時代にはいります。
外国・ヨーロッパの文化が入って来ると、経済的な成長により
豪華な茶の湯が流行り出しました。
この頃になると派手好きな豊臣秀吉の黄金の茶室などが有名でしたが、
利休は薄暗い、小さな小屋を作り、簡素簡略な茶の湯(侘び茶)の道を極めて行きます。
これは物事を簡単に考える「禅」が影響しています。

利休の作った小さな素朴な小屋はとても狭く、「四畳半」という
概念もここから来たと言われています。

狭い茶室で身分の上下無く「もてなす側」、「もてなされる側」にわかれ、
たわいもない話を楽しみました。

この後茶道はされに発展し、茶室の周りの手入れ、
花の活け方、掛け軸のかけ方なども同時に茶道の一環として発展しました。
元々はお客様をもてなす簡単な料理だった懐石料理も発展していき、今では贅沢で高価になりました。

1963年、江戸時代末期に生まれ、明治時代に活躍した美術家。
貿易商の父の影響で幼い頃から英語を学んでいた。
明治時代は文明開化の影響で、西洋の文化やものは新しいものとされ、
その一方それ以前の日本のものは古くさく遅れていると嫌われていく傾向にありました。
芸術分野も例に漏れず、洋画や洋風な作品がもてはやされ、日本の絵画などが否定されていきました。
そしてこの流れを止めたのが岡倉覚三でした。
岡倉覚三は伝統的な日本の芸術の価値を多くの人に再認識して貰うために活動をはじめました。
現在の「東京藝術大学」の前身となる「東京美術学校」を設立、公募による日本画展示会の「日本美術院」を設立するなど、
現代にも続く活動と、海外へ日本の美術の素晴らしさをアピールする活動などを行い、
50年という短い人生の中で、日本画や茶の湯などいくつもの伝統芸能を守りました。


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