placeholder imagetokusen logo-320

俳人としての理想を切り開くため賛同した
弟子と共に旅に出た松尾芭蕉の旅の記錄

placeholder image

奥の細道

朗読 榊原忠美

朗読時間 67分
CD枚数 1枚組

¥1650円

あらすじ

江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、江戸を出発地として、
東北へ向かい、平泉に到着。
後に、日本海側を旅して大垣に到着するまでの旅の記錄・・・。

松尾芭蕉について、原文、現代語訳などは下記で公開中です。

購入はこちらから

松尾芭蕉は、俳句の元である俳諧(はいかい)を、
芸術として完成させた江戸時代前期の人物です。
松尾芭蕉は徳川家の3代将軍家光の時代に、
伊賀上野(三重県)で準武士という社会階級の家柄に生まれました。
本名は松尾宗房。
極貧の生活では無いが、出世が期待できない階級であったため、
松尾芭蕉は自ら文芸・俳句の道を進みます。
29歳の時、江戸へ修行に向かうのでした。

30歳を過ぎて、憧れていた中国の李白(りはく)に似せた名前桃青(とうせい)と号し、37歳で後に芭蕉庵と呼ばれる深川の庵に転居します。
庭に繁った芭蕉の風情を気に入ったため、俳号を「芭蕉」に変更しました。
40歳を過ぎて「蕉風」と呼ばれる俳諧世界を確立して、ようやく俳聖と呼ばれはじめます。
芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは46歳のときで、51歳で亡くなっているのでかなり晩年になってから旅をはじめました。
修行の末、松尾芭蕉は俳人としての理想を見つけ、それに賛同した
弟子や支援者の助けを借りて「おくのほそ道」へと繋がる旅を始めます。




旅のルートと驚異的な移動スピード
『奥の細道』では、江戸の深川を出発し、
日光→松島→平泉まで行き、山形を通って新潟から金沢に入るルートを通ります。
その後、敦賀に行って大垣に到着。
そして、伊勢に向けて出発するまでが『奥の細道』に書かれている内容です。
そして驚異的なのが、彼らのスピードです!
旅の総移動距離は2400キロ程を徒歩で旅したのです!!
3月に下旬に江戸を出発し、5月中旬に平泉に到着、そして9月には大垣に
到着と、わずか6ヶ月満たない期間で、俳句の普及活動をして、
景色を楽しみ歩ききってしまったのです。
2400キロを歩ききるためには1日約16キロ歩かないといけません。
そんな驚異的な活動をする松尾芭蕉は忍者だったのではないかと噂も現代まで
残っているそうです笑
すごい健康な体と足を持っていたのですね。

俳諧の主流が貞門(ていもん)派から談林(だんりん)派へと移りゆく中で、芭蕉は俳諧師としての腕をあげ、41歳で転機を迎えることに。
芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉などの心痛が重なったことをきっかけに、残り少ない自分の人生を考え、自分の俳句の完成を目指して旅に出ることにしました。

芭蕉の同行者は最初、句づくりに長けた八十村路通(やそむらろつう)を連れて行く予定でしたが、性格に問題があったため、急遽、河合曾良という人物を選びました。
性格に難があった八十村路通とは違い、性格は几帳面、神道や地理、さらには全国の神社仏閣に詳しかったためです。

几帳面な曾良は訪問先にあらかじめ書簡を送り、芭蕉が行きたい場所や会いたい人、食べたいものなどを事前に知らせ、手配も完璧にこなしました。


この朗読者のその他の作品

伊豆の踊子
羅生門
鉄道員
書を捨てよ、町へ出よう
雪国
ふしあわせという名の猫


※タイトルクリックで作品ページ飛びます。

原文と現代語訳

奥の細道の原文と、現代語訳(超訳)をご用意しました!是非ご活用ください。
また、現代語訳は、世に出回っている現代語訳を更に訳したもので、現代風の日記をイメージしました。
あくまで参考という形でお楽しみください。本当の訳が知りたい方は翻訳本をご購入ください。

原文

月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。
舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。
ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、
草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家
面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。

ワンポイント

・舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて→船頭や馬方の生活を指す。
・古人も多く→芭蕉が敬愛し、旅で死んだ詩人、西行、宗祇、唐の杜甫、李白らのこと。
・そぞろ神→芭蕉の造語とされている。詳細は不明。 

現代語訳(超訳)

月日というものは、長い時間を旅していく旅人のようなものであって、過ぎ去っていった1年1年も旅人なんだ。

例えば、船頭は船の上に生涯を浮かべ、馬子は馬の轡(くつわ)を引いて年をとって行く。
その人達は日々旅の中にいるということで、旅を住まいとしている。

私もいつの頃だったかちぎれ雲に誘われて、漂白の旅への思いを止めることができず、浜辺をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻り蜘蛛の巣を払い除けて一旦落ち着いていたのだけれど、しだいに年も暮れて春になり、霞のかかった空を眺めていると、ふと「白河の関」に行ってみたくなってしまい、そぞろ神に取り憑かれたように心がさわいでしまい、更に道祖神の手招きもあって何も手につかない状況になってしまったので、破れた股引きを縫い、笠の緒を付け替えて、三里の壺に灸をすえるそばから、松島の月が心にかかり、住み慣れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人の別宅に移った。
草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家
(戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の家も、新しい住人が住むことによって、綺麗な雛人形が飾られるような家になるのだろうな。)

と、俳句を俳句を詠み、面八句を庵の柱に書き残した。

原文

弥生(やよい)も末(すえ)の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士(ふじ)の嶺(みね)かすかに見えて、上野(うえの)・谷中(やなか)の花の梢(こずえ)、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵(よい)よりつどひて、舟に乗(の)りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里(さんぜんり)の思い胸(むね)にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそそぐ。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立(やたて)の初(はじめ)として、行(ゆ)く道なを進まず。
人々は途中(みちなか)に立(た)ちならびて、後(うし)ろかげの見ゆるまではと見送(みおく)るなるべし。

現代語訳(超訳)

2月27日、夜明けの空はおぼろに霞み、有明の月は光が薄くなっていて、富士の峰が遠く幽かに見える。

上野・谷中の方を見ると木々の梢(木の先の部分のこと)が茂っていて、この場所を再び見に来れるのはいつになるかと思うと心細くなるのだった。

親しい人達は、宵のうちから集まって、船に乗って送ってくれた。
千住というところで船を降りれば、そこから三千里もの道のりがあると思うと胸が一杯になった。

この世は幻のように儚いものだ。
未練はないと考えていたのだけれど、いざ別れが近づくと流石に涙が溢れてくる。

行春や鳥啼魚の目は泪
(春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。)

この句を、この度で詠む第一句としよう。
見送りの人は別れを惜しんでなかなか足が進まない。
ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に並んでいる。
どうやら後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりらしい。

原文

ことし元禄(げんろく)二(ふた)とせにや、奥羽(おうう)長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)ただかりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うら)みを重(かさ)ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境(さかい)、もし生(いき)て帰らばと、定(さだめ)なき頼(たの)みの末(すえ)をかけ、その日ようよう早加(そうか)といふ宿(しゅく)にたどり着(つ)きにけり。
痩骨(そうこつ)の肩(かた)にかかれるもの、まずくるしむ。
ただ身(み)すがらにと出(い)で立(た)ちはべるを、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防(ふせ)ぎ、ゆかた・雨具(あまぐ)・墨筆(すみふで)のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路頭(ろとう)の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。

現代語訳(超訳)

今年は元禄二年であったろうか、奥羽への長旅をふと気まぐれに思い立った。

この歳から長旅をするなんて、絶対大変な目に合うし、白髪が増えるに決まってる。

話に聞いていたあの地域を、是非この目で見てみたい。
そして出来るなら再びここに戻ってきたい。

そんなあてもない願いを抱きながら、草加という宿にたどり着いた。

ここに来るまでに辛かったのは、痩せて骨ばってきた肩に、荷物がずしりと重く感じたことだった。
できるだけ荷物は持たないようにして、手ぶらに近い格好で出発したつもりだったけど、夜の防寒具としては紙子が一着は必要だし、浴衣、雨具、墨、筆なども必要だ。

さらに、どうしても断れない餞別の品々をさすがに捨てるわけにはいかなかった。
結局、荷物がかさばるのは仕方ないということか。

原文

室(むろ)の八嶋(やしま)に詣(けい)す。
同行(どうぎょう)曽良(そら)がいわく、「この神(かみ)は木(こ)の花さくや姫(ひめ)の神(かみ)ともうして富士(ふじ)一躰(いったい)なり。
無戸室(うつむろ)に入(い)りて焼(や)きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室(むろ)の八嶋(やしま)ともうす。
また煙(けむり)を読習(よみならわ)しはべるもこの謂(いわれ)なり」。
はた、このしろといふ魚を禁(きん)ず。
縁記(えんぎ)のむね世(よ)に伝(つた)ふこともはべりし。

現代語訳(超訳)

室の八島と呼ばれる神社に参詣する。

一緒に旅に来てもらった曾良が言うには、「ここに祭られている神は木の花さくや姫の神といって、富士の浅間神社で祭られているのと同じご神体です。木の花さくや姫が身の潔白を証しするために入り口を塞いだ産室にこもり、炎が燃え上がる中で火々出身のみことをご出産されました。それによりこの場所を室の八島といいます。

また、室の八島を歌に詠むときは必ず「煙」を詠み込むきまりですが、それもこのいわれによるのです。」

と、教えてくれた。
また、この土地では「このしろ」という魚を食べることを禁じているらしいが、理由は木の花さくや姫の神の関係しているそうで、そういう神社の由来は結構世の中に知られている。

原文

卅日(みそか)、日光山(にっこうざん)の梺(ふもと)に泊(とま)る。
あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直(しょうじき)をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜(いちや)の草の枕(まくら)もうとけて休みたまへ」といふ。
いかなる仏(ほとけ)の濁世塵土(じょくせじんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(そうもん)の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別(むちむふんべつ)にして、正直偏固(しょうじきへんこ)の者(もの)なり。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質(せいしつ)もっとも尊(とうと)ぶべし。

現代語訳(超訳)

3月30日、日光山のふもとに宿を借りて泊まった。

宿の主人が、「私の名前は仏五左衛門といいます。なんでも正直に!がモットーですから、周りの人からは「仏」と呼ばれるようになりました。そんな次第ですから、安心して今夜はゆっくりおくつろぎください。」と言ってきた。

僧侶のような格好をして、乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者を、仏五左衛門はどうやって助けてくれるんだろうと観察していたが、知恵や分別がすごいということではなく、ひたすら正直で一途な人だった。

論語にある「剛毅朴訥は仁に近し」という言葉を体現しているような人物だ。

こういう人こそ尊敬しなければ行けないな。

原文

卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。
往昔(そのむかし)この御山(おやま)を二荒山(ふたらさん)と書きしを、空海大師(くうかいだいし)開基(かいき)の時、日光と改(あらた)めたまふ。
千歳未来(せんざいみらい)をさとりたまふにや。
今この御光(みひかり)一天(いってん)にかかやきて、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵(しみんあんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。
猶(なお)憚(はばかり)多くて筆(ふで)をさし置(おき)ぬ。
あらたうと 青葉若葉(あおばわかば)の 日の光

現代語訳(超訳)

4月1日。
日光の御山に参詣した。
昔この御山を「二荒山(ふたらさん)」と書いたが、空海大師が開基した時、「日光」と改められたそうだ。

大師というのは千年先の未来までも見通すことできたのだろうか、今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き、国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができている。

私ごときがこれ以上日光について書くのは畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。

あらたふと青葉若葉の日の光
(ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えている。)

古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。
霞がかかっていて、雪がいまだに白く残っている。

剃捨てて黒髪山に衣更 曾良
(旅に出発する時に髪を剃って坊主になった。今また四月一日衣更えの時期に、その名も黒髪山を越え、この旅にかける決意を新たにするのだった。
曾良は河合という姓で名は惣五郎というらしい。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれている。)

今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることが嬉しい、また旅の苦労を労わりあうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。

こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえるでしょう?

二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。

岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれる場所。

暫時は滝に籠るや夏の初
(滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようかな。)

原文

黒髪山(くろかみやま)は霞(かすみ)かかりて、雪いまだ白し。
剃捨(そりすて)て 黒髪山(くろかみやま)に 衣更(ころもがえ) 曽良
曽良(そら)は河合氏(かわいうじ)にして、惣五郎(そうごろう)といへり。
芭蕉(ばしょう)の下葉(したば)に軒(のき)をならべて、よが薪水(しんすい)の労(ろう)をたすく。
このたび松島(まつしま)・象潟(きさがた)の眺(ながめ)ともにせんことを悦(よろこ)び、かつは羈旅(きりょ)の難(なん)をいたはらんと、旅(たび)立つ暁(あかつき)髪(かみ)を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかえ、惣五(そうご)を改(あらため)て宗悟(そうご)とす。
よって黒髪山(くろかみやま)の句(く)あり。
「衣更(ころもがえ)」の二字(にじ)力(ちから)ありてきこゆ。
廿余丁(にじゅうよちょう)山を登つて瀧(たき)あり。
岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりゅう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(お)ちたり。
岩窟(がんくつ)に身(み)をひそめ入(い)りて瀧(たき)の裏(うら)より見れば、裏見(うらみ)の瀧(たき)ともうし伝(つた)えはべるなり。
しばらくは 瀧(たき)に籠(こも)るや 夏(げ)の初(はじめ)

現代語訳(超訳)

古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。
霞がかかっていて、雪がいまだに白く残っている。

剃捨てて黒髪山に衣更 曾良
(旅に出発する時に髪を剃って坊主になった。今また四月一日衣更えの時期に、その名も黒髪山を越え、この旅にかける決意を新たにするのだった。
曾良は河合という姓で名は惣五郎というらしい。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれている。)

今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることが嬉しい、また旅の苦労を労わりあうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。

こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえるでしょう?

二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。

岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれる場所。

暫時は滝に籠るや夏の初
(滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようかな。)

原文

那須(なす)の黒ばねといふ所(ところ)に知人(しるひと)あれば、これより野越(のごえ)にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
遥(はるか)に一村(いっそん)を見かけて行(ゆ)くに、雨降(ふ)り日暮(く)るる。
農夫(のうふ)の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)ればまた野中(のなか)を行(ゆ)く。
そこに野飼(のがい)の馬あり。
草刈(か)る男の子(おのこ)になげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。
「いかがすべきや。されどもこの野は縦横(じゅうおう)にわかれて、うゐうゐ(ういうい)しき旅人(たびびと)の道ふみたがえむ、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひて走る。
独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねといふ。
聞きなれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名(な)成(な)るべし 曽良
やがて人里(ひとざと)にいたれば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(むすびつ)けて、馬を返(かえ)しぬ。

現代語訳(超訳)

那須の黒羽というところに知人がいるので、これから那須野をこえて会いに行こうと思う。

遥か彼方に村が見えるのでそこを目指していると、雨が降ってきて日も暮れてしまった。
百姓屋で一晩泊めてもらい、翌朝再び那須野の原野の中を進んでいった。

そこに野で飼っている馬がいた。
そばで草を刈っている男に道を尋ねると、田舎もんの男だったけど、情けの心、というものを知らないわけではなかったようだ。

「初めて旅をする人が道に迷うと大変ですから、この馬をお貸ししましょう。馬の停まったところでお繰り返してくれれば結構ですから」


と、言ってくれたので馬を借りて進んでいると、後ろから子供が2人、馬の後を走ってついてくる。

一人は女の子で、「かさね」という名前だった。
あまり聞かないが優しい名前と言うことで、曾良が一句詠んだ。

かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
(可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ)

それからすぐに人里に出れたので、お礼のお金を馬の鞍壺に結びつけて、馬を返した。

原文

黒羽(くろばね)の館代(かんだい)浄坊寺(じょうほうじ)何(なに)がしの方(かた)におとずる。
思ひがけぬあるじの悦(よろこ)び、日夜(にちや)語(かた)りつづけて、その弟(おとうと)桃翠(とうすい)などいふが、朝夕(ちょうせき)勤(つと)めとぶらひ、自(みずから)の家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外(こうがい)に逍遙(しょうよう)して、犬追物(いぬおうもの)の跡(あと)を一見(いっけん)し、那須(なす)の篠原(しのはら)をわけて玉藻の前(たまものまえ)の古墳(こふん)をとふ。
それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(もう)ず。
与一(よいち)扇(おうぎ)の的(まと)を射(い)し時、「べっしては我国氏神(わがくにのうじがみ)正八(しょうはち)まん」とちかひしもこの神社(じんじゃ)にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊(ことに)しきりに覚(おぼ)えらる。
暮(くるれば桃翠(とうすい)宅(たく)に帰る。
修験光明寺(しゅげんこうみょうじ)といふあり。
そこにまねかれて行者堂(ぎょうじゃどう)を拝(はい)す。
夏山(なつやま)に 足駄(あしだ)をおがむ かどでかな

現代語訳(超訳)

黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館に行った。
主人にとって、急な客人で戸惑っただろうが、思いのほか歓迎してくれて、昼から夜まで語り合った。

主人の弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。
こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。
昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。

それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、とても感動した。

そして、日が暮れると桃翠宅に戻る。

近所に修験光明寺という寺があった。
そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。


夏山に足駄を拝む首途哉
(役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めたのだった。)

原文

当国(とうごく)雲巌寺(うんがんじ)のおくに佛頂和尚(ぶっちょうおしょう)山居跡(さんきょのあと)あり。
竪横(たてよこ)の 五尺(ごしゃく)にたらぬ 草(くさ)の庵(いお)
むすぶもくやし 雨なかりせば
と、松の炭(すみ)して岩に書き付(つ)けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。
その跡(あと)みむと雲岸寺(うんがんじ)に杖(つえ)をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若(わか)き人おほく、道のほど打(う)ちさはぎて、おぼえずかの梺(ふもと)にいたる。
山はおくあるけしきにて、谷道(たにみち)はるかに、松(まつ)杉(すぎ)黒く、苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天今なお寒(さむ)し。
十景(じっけい)つくる所(ところ)、橋(はし)をわたつて山門(さんもん)に入(い)る。
 さて、かの跡(あと)はいづくのほどにやと、後(うし)ろの山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵(しょうあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。
妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しかん)、法雲法師(ほううんほうし)の石室(せきしつ)を見るがごとし。
木啄(きつつき)も 庵(いお)はやぶらず 夏木立(なつこだち)
と、とりあへぬ一句(く)を柱(はしら)に残(のこ)しはべりし。

現代語訳(超訳)

下野国の臨済宗雲巌寺の奥の山に、私の禅の師である仏頂和尚が山ごもりしていた跡がある。

「縦横五尺に満たない草の庵だが、雨が降らなかったらこの庵さえ必要ないのに。住まいなどに縛られないで生きたいと思ってるのに残念なことだ」と、松明の炭で岩に書き付けたと、いつか話してくれたのを覚えている。

その跡をひと目見ようと雲巌寺に杖をついて向かうと、ここの人々はお互いに誘い合って気さくに案内してくれた。
若い人が多く、道中楽しく騒いで、気付いたら麓に到着していた。

この山はだいぶ奥が深いようだ。谷ぞいの道がはるかに続き、松や杉が黒く茂って、苔からは水がしたたりおちていた。

仏頂和尚山ごもりの跡はどんなものだろうと裏山に上ると、石の上に小さな庵が、岩屋にもたれかかるように建っていた。

話にきく妙禅師の死関や法雲法師の石室を見るような思いだった。

木啄も庵はやぶらず夏木立
(夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ。)

と、即興の一句を柱に書き残すのだった。

原文

これより殺生石(せっしょうせき)に行(ゆ)く。
館代(かんだい)より馬にて送(おく)らる。
この口付(つ)きの男の子(おのこ)、短冊(たんじゃく)得(え)させよとこう。
やさしきことを望(のぞ)みはべるものかなと、

野(の)を横(よこ)に 馬(うま)ひきむけよ ほととぎす

殺生石(せっしょうせき)は温泉(いでゆ)の
出(い)づる山陰(やまかげ)にあり。
石の毒気(どくけ)いまだほろびず。
蜂(はち)蝶(ちょう)のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。
また、清水(しみず)ながるるの柳(やなぎ)は蘆野(あしの)の里にありて田の畔(くろ)に残(のこ)る。
この所(ところ)の郡守(ぐんしゅ)戸部(こほう)某(なにがし)のこの柳(やなぎ)見せばやなど、おりおりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳(やなぎ)のかげにこそ立ち寄(よ)りはべりつれ。

田(た)一枚(いちまい) 植(う)えて立ち去(さ)る 柳(やなぎ)かな

現代語訳(超訳)

黒羽を出発して、殺生石に向かった。
伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという石が殺生石というらしい。

黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。

すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

(広い那須野でほととぎすが一声啼いた。
その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。
そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか。)

殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。

また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。

その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。
ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄った。

田一枚植て立ち去る柳かな
(西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。私は田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めてから立ち去るのだった。)

原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


原文


現代語訳(超訳)


tokusenn logptokusen logo-320