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江戸時代の三大お家騒動として名高い伊達騒動で悪役として伝えられている
原田甲斐のもう一つの知られざる正義の物語。

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樅の木は残った 上

朗読 平川正巳

朗読時間 658分
CD枚数 9枚組

¥5500円

あらすじ

幕府の老中・酒井雅楽頭と仙台藩主一族の伊達兵部との間に伊達家取り潰し、私物化を図る、仙台藩六十二万石分与の密約を見破った宿老の原田甲斐は伊達藩の安泰のため逆臣の汚名を被りつつその企てを阻止するのだが・・・。

取り潰し寸前の伊達藩を軸に、藩を救うため、家族とも、友とも、部下とも離れ、たった一人で戦う過酷なシナリオが描かれている。
悪役として伝えられている原田甲斐を違う視点で描かれた歴史小説を朗読CDにしました。

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本来、お家騒動とは江戸時代の大名家の内紛を指す言葉でしたが、現代では企業や家族の内部抗争の総称にもなっています。
お家騒動自体は珍しいことではなくよく起こっていたそうです。

江戸時代前に起こった内争との違いは?

江戸時代になる前から内争はもちろんありました。
しかし、内争が起こった際には血で血を洗うような実力行使によって解決してきました。
足利氏の「観応の擾乱」、大友氏の「二階崩れの変」が代表的な例です。
元和偃武により戦国の世が終わると、大名家は江戸幕府が定めた武家諸法度に基づき、問題を解決するようになりました。武家諸法度が定められたことによってさらに内争は解決しにくく、泥沼になっていきます。


その中でも特に知られているのが以下の3つのお家騒動です。
この3つの騒動を「三大お家騒動」と呼びます。

加賀騒動

加賀藩で勃発した騒動。
享保8年(1723年)、第五代藩主・前田綱紀の隠居に伴い、息子である前田吉徳が第六代藩主になりました。
吉徳は自身の権力を確立させようと、前からお気に入りであった家臣・大槻伝蔵を取り立てて重用、財政改革に取り組むことにしました。しかし財政改革は思うように効果を上げずにいました。
財政改革の効果が出ないにも関わらず、吉徳による大槻の厚遇は深まるばかり。
これに不満を覚えた門閥派・保守派の家臣の不満が募り、遂に吉徳の長男・前田宗辰に対し、大槻を非難する弾劾状を差し出すまでに至ってしまいます。

延享2年(1745年)、吉徳の死去を受けて宗辰が第七代藩主となりました。
後ろ盾を失った大槻は宗辰から蟄居を命ぜられ、3年後には私財没収の上で越中五箇山に流刑となってしまいます。
しかし不運な事に宗辰は病に倒れ、変わりに弟の前田重煕が第八代藩主となります。
ところが延享5年(1748年)、藩主・重煕および養母・浄珠院の毒殺未遂事件が発生してしまいます。調査の結果、奥女中の浅尾による犯行と判明し、厳しい詮議の結果、主犯は吉徳の側室・真如院である事が発覚。
更に真如院の部屋を捜索すると、なんと大槻との不義密通を示す手紙が発見されてしまうのでした。

寛延元年(1748年)9月、騒動を知った大槻は蟄居先で自害。翌年には禁固刑にあった浅尾と真如院も誅殺され、その後も粛清の嵐が吹き荒れることに・・・。
ただし一説には加賀騒動は存在せず、大槻を佞臣に仕立て上げる為の陰謀だったという説もあります。

黒田騒動

福岡藩にて勃発した騒動。
福岡藩第二代藩主・黒田忠之は、「今世の張良」と称された祖父・黒田孝高(黒田官兵衛)や、関ヶ原の戦いで第一功となった父・黒田長政とは異なり、狭量で粗暴な性格だった為、長政は世継ぎとして相応しくないと考え、三男・長興に家督を譲ろうと考えます。
この時忠之に送られた書状は「百姓になるか、関西で商人になるか、僧侶になるか」を迫る、大変厳しいものでした。しかし忠之の後見役・栗山大膳(栗山利章)は長政に対し、家臣の子弟を集めて血判状を送ってまで忠之を擁護することに。この嘆願が受け入れられ、長政は栗山を後見役に頼むと、家督を忠之に譲り亡くなってしまいました。

ところが忠之は藩主就任早々、譜代の家臣団との間に軋轢を生じさせます。栗山は諫言をしたためた書を忠之に送るが、「深酒をしないように」など子供に向けたような内容であった為に忠之は激怒してしまいます。
忠之は栗山とも距離を置き、自らにおもねる家臣のみを重用、更に太平の世に逆行するかのように軍拡を行うなどの暴挙は始めてしまいます。早々にこれらの不行跡は幕府の知る所となり、咎めを受けることになりました。

ここに至り栗山も腹をくくり、寛永9年(1632年)に「忠之が幕府転覆を企てている」と幕府に上訴し、大騒ぎとなりました。
翌年、第三代将軍・徳川家光が直々に双方の主張を聞いた上で裁きを下します。

まず忠之に対しては領地召し上げとし、直後に「祖父と父の功により」福岡藩を安堵。この裏には徳川家康が関ヶ原の戦いの後に長政に与えた「子々孫々まで罪を免除するお墨付き」の存在も大きく影響していました。
一方で「大膳は狂人である」とした黒田家の言い分が通り、騒動の責を追って栗山は陸奥盛岡藩預かりとなりましたが、同時に忠之が取り立てた側近・倉橋十太夫も高野山に追放された。
この時栗山は藩祖・黒田如水所用の兜を持参しており、これは現在でも盛岡市に所蔵されているそうです。

他の二つのお家騒動とは異なり、幸い死者は出ていない騒動。
しかし大大名の治める藩が危うくお取り潰しになる可能性、最終的に将軍自らの裁定だった事などから、衝撃が大きい事件のため知られることになりました。

伊達騒動

仙台藩において勃発した騒動。

仙台藩第三代藩主・伊達綱宗は祖父・政宗譲りの道楽者として知られており、その遊興は留まる所を知らず、叔父である一関藩藩主・伊達宗勝による諫言も聞き入れられず、遂に万治3年(1660年)、21歳という若さで強制的に隠居させられてしまいます。第四代藩主には当時わずか2歳の嫡男・伊達綱村が就任する事となりました。

藩主となった綱村ですが、幼い事を理由とし、大伯父・宗勝や、奉行・奥山常辰らが実権を掌握してしまいます。
これに便乗する形で台頭した奉行・原田宗輔(原田甲斐)は、自らに諫言してきた里見重勝を無嗣断絶に追い込むなど、専横を行いました。
これに対し、宗勝派と対立する伊達家一門の伊達宗重は「自らの所領紛争において不利な裁定を下された」とし、宗勝派の専横を幕府に上訴することになりました。

※一方で寛文6(1666)年には当時8歳の綱村に対する毒殺未遂が発覚するなど、不穏な動きも記録されていました。

寛文11年(1671年)、江戸表の老中・板倉重矩邸にて、伊達宗重、柴田朝意(反宗勝派)、原田宗輔(宗勝派)らが審問を受ける事となる。一度目は何事もなく終わり、二度目の審議は大老・酒井忠清邸に場を移して行われました。
ところが柴田が審問を受けている最中、控え室で原田はやおら宗重を斬殺してしまいます。そこに戻ってきた柴田と斬り合いとなり、互いに負傷。両者ともに混乱した酒井家家臣らに討ち取られるという、流血沙汰となってしまいます。

関係者の死を受け、綱村は幼少の為お構いなしとされるが、事もあろうに大老の邸宅で刃傷に及んだ原田家は断絶、一族の男子は皆殺しとなることに。
更に騒動の大元となった宗勝や後見人らも咎めは免れ得ず厳しい処罰を受けることになり、一関藩は改易という極めて重い処分が下されました。
※「樅ノ木は残った」とは原田甲斐のイメージが違います。

・1619年 原田宗資(はらだむねすけ)の長男として陸奥国柴田郡船岡城で生まれました。
幼名は弁之助 初めは雅楽でしたが甲斐に変わります。
・1623年:5歳になると父・宗資の死去により家督を継ぎ、原田家第19代船岡城主となります。
・1648年:伊達藩 評定役に
・1663年:伊達藩 奉行(家老)首席に
・1671年:伊達騒動が起きる 享年53歳:江戸に於いて大老・酒井忠清邸で伊達宗重を斬殺し、
宗重派の柴田朝意と斬りあって傷を負い死亡してしまいます。
 原田家一家は断絶→子供4人・孫2人・養子に出された者や乳幼児を含め全員切腹、斬首という悲しい結末に

著者について
あらゆる文学賞を辞退し続けたことで有名な作家。
「日本婦道記」で直木賞に推されたがそれも辞退。
底辺に生きる庶民のそばに立った独特な作風が親しまれた。
代表作として「樅の木は残った」と「赤ひげ診療譚」、「青べか物語」がある。


この著者のその他の作品

季節のない街
赤ひげ診療譚
日本婦道記

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